歴史

No.003 江戸時代の発展

江戸時代にもなると魔剤府の都市部はさらに拡大し中期には魔剤府城を中心とする城下町のエリアと魔剤府天満宮を中心とする門前町のエリアが一つになり大都市を形成した。江戸中期の人口は約10万人といわれ日本でも5本の指に入る大都市であった。 上地図:相変わらずだが熱津の港が現代の状態だしダムが整備されちゃってるのはご愛敬。初浜宿を通る道路が戦国時代と比べ太くなっている。これは幕府から街道として指定されたのが柚尾宿側のルートではなく初浜宿側のルートだったからだ。これにより初浜宿の規模も拡大している。

ところで、かつて置かれていた「魔剤府」が「薬学所」と変更している。もちろんであるがこれは完全な武士社会になった事により「魔剤府」の必要性がなくなったからだ。
しかし、幕府はその当時まで続いていた薬の研究機関については残すこととした。それが地図にある「薬学所」であり現在の魔剤府大学薬学部の前身である。

また江戸時代初期には、城下町から見て他力川を挟んだ向かい側の他力町に他力本願寺が建立されこちらも門前町として栄える、とはいえこちらは元から城下のそばである。

ところで、地図の南部と北部に都市が見えるが熱津と大岡だ 。熱津は港町として発展し、大岡は国府所在地として栄えた過去があるがこの当時は宿場町として発展を見せている。
※1 江戸時代中期の諸都市の人口
あるデータによれば1750年当時の魔剤府市の推定人口は139,000人である。これは三都と呼ばれた江戸(1,220,000人)・大坂(410,000人)・京(370,000人)に次ぐ人口である。このことからも当時の発展具合がわかるだろう。
ちなみに魔剤府の次に来る都市は金沢(128,000人)・名古屋(106,000人)である。意外にも当時は名古屋よりも魔剤府・金沢の方が発展していたのだ。

※2 魔剤府大学
1907年に魔剤府帝国大学として設立された旧帝大の一つ。現在も薬学所、つまり「魔剤府」の跡地にキャンパスがある。
先述したが前身は薬学所である。もう少し詳細に話すと薬学所が1868年(明治元年)に魔剤府薬学校と改称して学校として再出発をすると、1907年には各地に帝国大学を設置する流れによって魔剤府薬学校が魔剤府帝国大学となった。もちろんであるがこれ以後は薬学以外の分野にも関わる大学となる。

※3 他力川
地図で言えば城下町と他力本願寺の間を流れ途中その北の魔剤府川とは合流せずに独自の源流を持つ川。
途中魔剤府川からの分流が合流するがこの分流は魔剤府運河というもので江戸時代につくられた人工河川だ。つくられた目的は度々氾濫し城下町に被害を与えていた魔剤府川の氾濫防止である。

※4 熱津(あたつ)と大岡
熱津は現在では魔剤府市の隣にある熱津市の中心地。かつてから港町として発展している。あまり港に向かない地形である魔剤府の代わりといっては何だが、大阪に対する神戸のような役割を果たしている。
大岡も魔剤府市の隣にある大岡市の中心地。国府があった場所であり一時は魔剤府より発展していた。国府はだんだんと廃れていくのだが宿場町としてその後も発展していった。
現在の魔剤府都市圏は主に魔剤府市・熱津市・大岡市が中心である。
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