歴史

No.004 文明開化

長い江戸時代が終了し明治時代に入ると文明開化の波が魔剤府にまで押し寄せる。行政・交通など大きく変化した魔剤府を見ていこう。 上地図:熱津の海岸線、現代の状態なんで...でも魔剤府港は当時の状態。現代よりずいぶん小さいことがわかる。

まず大きな変化として鉄道の開通が挙げられる。1882年、滋賀県の長浜から熱津・魔剤府を経由し祈水までの路線が開通した。これが現在の魔剤府線である。この路線の開通により魔剤府は京都・大阪に琵琶湖経由であるがつながり人と物の動きが活発になった。
また、貧弱な金総港にかわる近代的な港として魔剤府港が整備された。魔剤府ではこれが初めての埋め立てである。この港には貨物線が伸ばされ、熱津港とともに大阪への日本海側の入口となった。

行政における明治になっての大きな変化はやはり廃藩置県であろう。江戸時代金総藩の中心だった魔剤府は明治になると鋸氷県の県庁所在地となる。鋸氷県になるまでにも途中様々な移り変わりがあるのだがここでは紹介しない。
また、もう少しミクロな話をすると魔剤府は「魔剤府市」となる。これは1888年に交付された市制によるものだ。

ところで、明治にはいわゆる「廃城令」とよばれるものがある。これは陸軍が城を財産として残すかどうかを決めるもので魔剤府城も当然選考されることとなった。そして出た結論は「存城処分」。というのも城には好立地であるが他の事に使用するにはとにかく不都合な立地だからだ。第一岬にある山をどう活用しろという話である。
存城処分となり陸軍の用地となった魔剤府城。ところがこの土地は陸軍にとっても不要となってしまった。そのため市に払い下げられた。ここから魔剤府城は文化財としての道を歩むのである。
※1 JR魔剤府線
もとは官設鉄道として建設された祈水-米原の鉄道路線。魔剤府近郊ではこの路線が初の鉄道であり現在も最も重要な幹線だ。現在は魔剤府新幹線が並行して走る。
祈水から金沢のほうへ伸びる北陸本線とはほぼ一体化した路線のようなものであり直通列車がほとんどだ。ちなみに電化方式が魔剤府線は直流、北陸本線は交流なので当然交直流車が直通する。

※2 魔剤府港貨物線
現在では魔剤府貨物ターミナル-魔剤府を結んでいる貨物線。魔剤府線の開業と同日に開業した。
現在はこの路線の隣には魔剤府新幹線が走っている。貨物線の旅客化は考えられていない。万一開業してもMCTと被ってしまう。
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